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御教祖

 古神道 神理教の歴史

歴代管長

 初代高祖・饒速日命[にぎはやひのみこと](十種神宝・神事)物部氏・巫部家の始め。

  邇邇芸命[ににぎのみこと](三種神器・政治・天皇家)の兄(大祓の皇孫命[すめみまのみこと])

 二代・宇麻志麻知命[うましまじのみこと] 申食国政大夫[おすくにまつりごともうすのまえつきみ]、卜部・忌部を率い神事。

 七代・伊香色雄命[いかしこおのみこと]、300年初頭大臣として開化(十種神宝にて疫病平癒)

・崇神(十種神宝を石上大神と称え言霊を明らかにする)天皇に仕える。

 九代・瞻咋宿祢命[いくいすくねのみこと]、391神功皇后の三韓征伐、物部姓・連[むらじ]に叙せらる(北部九州に地の利を得る)徳力←徳利木←採木、帆柱山、御手洗池、船原(南方)

 十代宗祖・物部五十言宿祢命[いそことすくねみこと]、五十言[いそこと]の言霊[ことだま]・神字(町形)を明らかにする。

 十二代先祖・物部以美岐連命[いみきみらじのみこと]、430年頃履中天皇より弓矢を賜り諸国病気平癒命じられる。大嘗山へ天在諸神鎮座。疫病退治は他に十七・十九・三十四・三十六・三十八・六十八・七十三・七十七代(御教祖)など

 十六代開祖・巫部(物部)兄奇宿祢命[えぐしすくねみこと]、480年頃雄略天皇の難病を平癒、

巫部姓と日月五星。豊前巫部・日月家の始まり。

 十九または二十代頃、磐井の乱528・親族(物部真椋大連の孫を十七代大久志命が妻に迎える)である物部連麁鹿火を助勢。

 二十一代・巫部大椋命[おおくらみこと]、587蘇我氏との抗争・物部守屋と共に戦い行方不明。

 三十一代中祖・巫部連麻呂命[むらじまろのみこと]、825巫部家の伝書・教義・神術を集成。

 四十五代巫部三郎清名命[さぶろうきよなのみこと]、四十六代巫部太郎丸盛名命[たろうまるもりなのみこと]

  1185源平の戦い・安徳天皇を長野に迎えようとして果せず戦死。

 五十一代・巫部太郎太夫高光命[たろうだゆうだかみつみこと]、1281元寇弘安の役・人心平安・異賊退治を祈願、大巫司[おおかんなぎつかさ]・大宮司となる。

 五十三代・巫部左馬介高樹命の義父巫部左右衛門尉高足命 茶花の本元

  1336九州敗走の足利尊氏に花を献じ、後に花枝(東大野)の地を受ける。

 五十六代・巫部右京介重興命[うきょうのすけしげおきのみこと]、1413天在諸神の神祠を再建、大友・毛利・杉の大名を教化。

 六十三代・巫部左馬重威命[さましげたけのみこと]、親族の佐野源衛門親重に一人娘菊野を嫁がせ、その長男を養子に迎える。

  大内・大友の戦乱、その親重はその長男親政以下の兄弟と共に、戦乱のままに蒲生の虹嶽城・宇佐の土井(佐野)城などを転戦し、戦死。

 六十四代・巫部左衛門重足命[さもんしげたりのみこと](兄弟共に帰った佐野源治郎親政、改め)

  造化神社で細川忠興の父、幽齋(藤孝)の眼病平癒を祈る。

 六十五代・巫部右京常重命[うきょうつねしげのみこと]、1615大阪夏の陣に籠城戦死(後に割腹)

 六十六代・佐野左馬重足命[さましげたりのみこと]・徳力権太郎細川忠興候の命にて、縁故の

佐野姓に改める。

 六十七代・佐野徳力四郎重家命[とくりきしろうしげいえのみこと]、1621徳力村惣庄屋・神事にも力を注ぐ。

 六十八代・佐野左衛門重孝命[さえもんしげたかのみこと]、淫祠の疑いを受け数多くの神宝を没収されるが、誤解が解け返還。

 七十一代・佐野三左衛門経之命[さんざえもんつねゆきのみこと]俳諧・西田宗因に続き松尾芭蕉の門に入り其香と号す。芭蕉に“行きて見む 花につくしの 嵐山”の句を頂く。孫、七十三代・長三郎経長命が句碑を紫川河畔に建立。現在造化宮に移設。

造化神社(大神宮・小松宮彰仁親王)

 天皇家が政治〔まつりごと〕を司るのに対し、物部(巫部)家は神事を司ると伝えられていた。この系譜でもわかるように、武力を用いた先祖は失敗し、神事を通じて世に貢献する先祖は成功をしていた。

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