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定旨第十一条

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教義

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怠[おこたり]
 出来る事をしない、自分で物事を考えない、人のせいにしてしまう。 教育。
慌てず怠らず。 本来戴き備わっている生きる力に気付き活かす。

詐[いつわり]
 嘘が嘘を呼び大嘘となる。包み隠す。自分への嘘、他人への嘘。
嘘に慣れる時、包み隠す事で自分の心の目も見えなくなる。
最初に戻り、神と先祖と共に歩む決意。教祖神の救い。善い言葉。

貪[むさぼり]
 我がものと 思えばやがて 散りうせぬ  神に賜る 物にあらねば  教祖御歌

 天造の教え神道と他の人造教との違い。
  食べ物、飲み物、豊かさ、もの皆を産みなす為の性、喜び・楽しみ・安らぎ。
  原罪や業ではなく全て目的と必要があって、神から与えられたもの。
  目的と必要以上の、いわば欲の為の欲を貪りと言う。
 目的とは、誠実に追及し見つめる。
  自分の目的と神の目的は、不可思議にも当然の帰結として一致しているもの。
  全体の中の自分、全体としての自分。全ての人の幸せの中での自分の幸せ
 戴く事より感謝の気持ち

憤[いきどおり]
 怒りも神様からの戴きものあるがべき場所。
 自分の為の怒り? 物事を正確にとらえる目を奪うような憤り。
清明に神に近い状態・心の余裕・わが心清々しい・心を澄ます。 和魂・荒魂

慢[たかぶり]
 弱い人間・一生が心の成長と浄化。自分と神に問う、自分の成長する部分は?
 他人を救うことが自分の勉強・修行。意欲と謙虚
心の目を自ら閉ざすのは奢[おご]り・慢[たかぶ]り・あきらめ・引け目・虚栄・お山の大将

憂[うれい]
 心配・悲しみも、神から与えられた生きるための感情。漫然とこれを味わい続けるものか?
 生きる力を奮い起こす。祈り、祭りが神への一番の近道。  幸魂・荒魂の活性

怨[うらみ]
 『天に向けて唾[つば]を吐く。』物理・天の理
 『罪を憎んで人を憎まず。』
 日の若宮・黄泉の国  祖先の感謝・恨み
 世間や人を恨む。人のせいにする。
 今の自分の悪いところは自分のせい。良いところは神と先祖の守りのお陰。
 人を怨[うら]めば気持ちが重くなり、人を陥[おとしい]れれば、その人の祖先から憎まれて、日の若宮から離れ、黄泉[よみ]の国に近付く。
 人と喜びを共にすれば気持ちが軽くなり、人助けをすれば、その人の祖先から感謝 されて黄泉の国から離れ日の若宮に近付く。積(陰)徳を気軽な習慣に!

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 神理図

 

 

 

 

 

 

 

 

 神理図 天覧の前後 

 御教祖は、明治八年の冬より、不思議な「お告げ」や「夢見」を体験され、精神が病んだか、禍神のしわざか、自らを疑いました。しかし、次々と奇跡などが起こりました。いよいよ神様からお許しがでて神事や教義研究、宣布に集中する秋と悟りました。それからは青年学者を育てるべく講席をも開きました。

 同時期、十数巻の教書を宮内庁・内務省・神道本局に献納され、それぞれから賞状をいただきました。

 明治十二年、教導職試補を受け、すぐに権少講義に昇級され、神理教会の創立となりました。翌年の十三年には、神理教会本社との公認を受けました。

 御教祖の皇族への拝謁の始まりは、久爾宮殿下でありました。

 明治十五年には、教書の「神理図・同解三巻」を天覧に供しました。同時に、神道総裁有栖川宮殿下にも献上されました。半月後に有栖川宮殿下から参殿せよとのお声が掛かり、幟仁(たかひと)親王(しんのう)殿下に拝謁(はいえつ)されました。種々ご下問がありましたが、御教祖に対し、「今よりは、大教主たれ」との 御令旨(おれいし)を賜りました。

 これより、太政大臣 三条(さんじょう)実美(さねとみ)公、右大臣 岩倉(いわくら)具視(ともみ)公、などに拝謁されました。

 明治十六年には、五段階も越級し大講義に昇級しました。この頃になりますと、神道家としての名声は世に響き渡っていました。

 そして、明治二十七年、明治政府より一教独立を公認されたのであります。

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今日訓

定旨第十一条 (七罪八徳)

 神理教徒は、怠[おこたり]・詐[いつわり]・貪[むさぼり]・憤[いきどおり]・慢[おごり]・憂[うれい]・怨[うらみ]を罪とし、是によりて病災を招き、余焔[よえん]は子孫に及ぶと信ずると共に、健康・(誠実)・陰徳・施捨・労役・愛他・克己・自白等を以て是を解[ほど]けば、神は是を恵みて愛を垂れ玉う事を信ず。
怠[おこた]りて 偽[いつわ]り憂[うれ]ひ 憤[いきどお]り 高慢怨[たかぶりうら]み 貪[むさぼ]るも罪
 罪、ツミ  =ツツミ(包み)・カクス(隠す)
 汚れ、ケガレ=キ(気)・カレル(枯れる)

仁・義・忠・孝
仁と義と 忠と孝てふ 其の四つの  非ざるという 文字ぞ罪なる  教祖御歌

清ければ 神は寄るなり 掃[は]き清め  祓い清めて 神祭りせよ
祓い、ハライ=ヒ(日)・アラセ(顕わす)     笑い

怠[おこたり]
 自分を振り返ってみると、意外に自分や他人に対して善いことを出来るのにしていない事や、自分で頭から出来ないと思い込んでいる事がよくあるものです。
 身の回りにも物事に対して守りの姿勢にこだわって、積極的な発想や行動が出来ない人がいるものです。
 自分で気付く気付かないに関わらず、また自分が管理者であろうが管理される者であろうが、出来ることをしないで過すことは、怠りという罪を犯している事になります。

 昨今(平成二年)教育制度が改訂され少しずつ進んでいるようですが、それまでの教育は知識や学歴を中心にあるべき大人の理想像を決め、そこへ到達する為に大学から小学校までに教えねばならない事を割り当てるというものでした。
 幼稚園や保育園でさえその下請け的なことを教育と称して行なってきました。
 自然なる神から戴く成長のための環境をその時期に与えるのが良いので、人間が決めた理想の大人像から型にはめるべきでないことに、ようやく気付いたのです。
 本当に大切なのは知識や学歴よりも、健全な心の持ちようと言えます。

 旧[ふる]い教育の結果、今の私たちを含めた世代の多くは、確かに学力は高いものの自分で考える能力が、例えばアメリカやインドの人に比べて低いと言われています。
 日本人は真似ばかりが上手で、新しく創造する事が苦手であると、言われ続けてきた理由の一つはここにあるようです。(オウムの青山弁護士、日立の研究者の留学)“長い間日本人はこれに気付かず、世界コンクールで算数や理科の高得点をとる技術のみに没頭して、自分で考える訓練を怠ってきたのです。
 常に他人から教えられる事に慣れて、自らの物事への取り組みについて考えず、また考える習慣が無いと、どんな人間になってしまうのでしょうか?

 人から使われる事に慣れてしまって、言われた事は器用にこなすものの、自分から取り組む意欲を失う機械的でアンバランスな人間になってしまいます。
 人との会話を楽しめず、機械とばかり接しまた依存して、暗くて孤独な人生を歩む事になります。
 一本道の幼稚な考えと複雑な現実を一致させる事が出来ず、自分の失敗もテレビゲームの感覚で自分のせいでは無く、命令した人のせいにしてしまう事になります。

 御先祖の荒魂は身体の守り神であると共に、荒々しいだけでなく物事に積極的に取り組む力を与えて下さるものです。
 自分の荒魂の活性を祈り、自分の出来ること自分の進むべき道を見据えて、慌てる事無くまた怠る事無く着実に歩み、本来戴き備わっている生きる力に気付き活かすことが大切です。
 支持待ち症候群といわれる私たちの世代も、自分本来の力を信じ出そうと思えば心が変わり、必ず行動につながるのです。

詐[いつわり]
  嘘[うそ]というのは、神や祖先や他人から物事を包み隠そうとすることです。
 罪・ツミはツツミ(包み)カクス(隠す)から来るもので、すなわち詐[いつわり]・嘘は罪なのです。
 小さな嘘をつく為には、それを包み隠し取り繕[つくろ]う為に段々と大きな嘘をつかねばならなくなります。
 また他人への嘘をついているうちに、自分自身をもだまさねば済まなくなる事もあります。
 嘘の罪が自分の心を覆い隠し、自分の心の目も見えなくするのです。
 自分の心(誰にでも必ずある神と同質の魂)からも包み隠さねばならない事になるのです。
 嘘をつく事に慣れるうちに、他人への嘘と自分への言い訳の嘘がゴチャ混ぜになり、自分でも収集がつかなくなってしまいます。

 万が一そういう事になっても、最初に立ち返り神と先祖と共に歩む決意をし、大元の天在諸神と教祖神にその罪を祓って戴く事を願えば、必ず元の自分を取り戻す事が出来ます。
 言葉には魂があるのですから、善い言葉を選んで使う普段からの心掛けも大切です。 良い言葉を選び、包み隠そうとする後ろめたい気持ちを取り祓えば、詐[いつわり]を口にせずに、気持ちのよい生活を送ることが出来ます。

貪[むさぼり]
 我がものと 思えばやがて 散りうせぬ  神に賜る 物にあらねば  教祖御歌
 天津日の 光にもれぬ 世なりけり  いつか其の身に また返さなむ 教祖御歌

 天造の教え神道と、人が造った教えとの違い。
 物を食べたり飲んだり、また人として暮らす為の豊かさを求める事は決して不自然な事ではありません。
 人間が増えて繁栄する為に、男女がお互いにその魅力を出し引きつけ合う性も、当たり前の事です。
 必要以上に、あるいは無理をしてそれらの欲を得ようとするのが貪りです。
 神道は、快楽派でもなくまた禁欲派でもなく、神様から戴いた物はそれなりの意味を感じ受け取ることを自然、とするものです。
 この世はただ苦しいだけの修行をするところではなく、この世を全ての人が安心して幸せに暮らせる神の世とする工夫を楽しみ、結果としてその為に行なった努力を修行とするものです。
 難行苦行はいらぬ道という教えは、こうした考えから出ているのです。
 神と祖先にいつも親しく接していれば、自然とその必要の度合いも感得出来るのです。

 キリスト教の原罪[げんざい]や仏教の業[ごう]という、始めから人間が担わなければならないとする重荷は、誰が・何時・なぜ決めたのでしょうか?
 自然なる神が決められたものではないようです。
 神理教では喜びも苦しみも、全て目的と必要があって神から与えられたものと考えます。
 喜びは神との喜びの共有で、苦しみは神と祖先からの教えであり、これらは受け入れるもので、否定すべきものではないと考えるのです。
 食べ物・飲み物・豊かさ・性は、神から与えられた喜びや楽しみですが、目的と必要以上の、いわば欲の為の欲を貪りと言います。
 この世を皆が安心して幸せに暮らせる神の世を目指す中で、自分としては何が出来るかの目的を誠実に追及し見つめることが必要です。
 自分の目的と神の目的は、不可思議にも当然の帰結として一致しているものです。 自分が誠実に一生懸命に行った事は、神様の心に適っている事が多いものです。
 戴こうとするより、今ある事の出来る自分に感謝の気持ちを持つ事が大切です。

 アメリカのナバホインディアンは現在も自然の中で祖先と自分達の知恵を使って生活しているそうです。
 ナバホインディアンの子どもと日本やアメリカの子どもに、自分の絵を描いてもらった時、日本やアメリカの子どもは画面に大きく自分の姿を描いたそうです。
 私たちの感覚からするとそれが普通に思います。
 ところがナバホインディアンの子どもの絵は皆、空や太陽や月や星や山や川や木しかなく、描いた本人の姿が見えないので、問うてみると木の側の小さな点を自分だと言ったそうです。
 本当はその全体が自分であると言いたかったようです。
 全体の中の自分、全体としての自分に思いを寄せ、全ての人の幸せの中での自分の幸せを求めることを、自分の体で知っているのだそうです。
 人間の本来の生き方だと思いますし、文明社会の中にあってもそうした思いを捨てずに、社会に貢献させて頂く自分を見出だしたいものです。

 自分の存在を自然全体の中の一部と感じることが出来るなら、必要以上の貪りを求める理由はなくなるものなのです。

憤[いきどおり
  憤[いきどお]り・怒りというものも、やはり神から与えられたもので、故小田清彦教正はご教誡の解釈で、怒るべきところでは怒らないといけないのだと教えています。
 社会の為、子供の教育のためには、怒らないといけない時もあるのです。
 ただし、憤[いきどお]りに身を任せてしまっては、物事を正確にとらえる心の目を自ら失ってしまいます。
 自分をかばう、また自分の短気という自分のための憤[いきどお]りであるかどうか、心を澄まして自分を見定め、清明で神に近い状態になれる事を心掛けるべきなのです。
 どうすれば心を澄まし、清明で神に近い状態になれるかというと、健康な身体と心の余裕という事になります。
 健康はともかく心の余裕というものはどこから出てくるのでしょうか。
 それが余裕を持とうとする心、すなわち信仰ではないでしょうか。
 神前に心を静め、『我が心清々しい』を唱えれば、神と祖先と心の波長を合わせ共有して、安らいだ心持ちを保つ事が出来るのです。

慢[たかぶり]
  人間は弱い生きものです。
 自分である一定の社会的地位や成功した等の状態に達する事が出来た時、誰に強制された訳でもないのに、いきなり一人で勝手に奢[おご]り慢[たかぶ]ってしまうのです。
 人によって強弱はありますが、これこそ最も陥[おちい]りやすい自分の心の目にかぶせものをするような罪と言えます。
 慢[たかぶ]りというのは、他人への引け目の裏返しという事も出来ます。
 自分への不安を押し隠そうと、虚栄を張らねば治まらないという事になるのです。 自分の存在を回りの人に示そうという事は人の当然の健康な本能といえます。
 けれども、引け目や不安の裏返しが理由では不健康です。
 普段から、小さなものでも摘[つま]み取っておかなければなりません。
 人に頭を下げる習慣の少ない職業(例えば私たち神職などもそれにあたるようですが)を持つ人は、よく自らを振り返ることが大切です。
(お山の大将、個人タクシー、神主、頭を下げる必要のない・または少ない人)
 また反対によく頭を下げる職業で、普段不本意ながら反発しながら行っている人も、自分の心の反動に気をつけるべきかもしれません。
 家族や目下の人に、鼻つまみとなるような態度を取っていないでしょうか?

生い茂る 庭の醜草[しこぐさ] 諸共に   心の塵も 取り払いてよ    (桃の一枝)
庭の塵  心の草も 怠らず   取り払う人を 神は助けむ   (教歌百首)

落柴[おちしば]も  散る紙屑の 一ひらも 積もれば庭の 富とこそなれ  (桃の一枝)

 体は二十代で成長を終えるものの、心の成長は本人がその気である限り無限です。
 いわば、一生が心の成長と浄化の場です。
 自分より大きく偉大なもの、同等以上の人間は常にたくさんいるとの認識が出来れば、まだ上がありそこへ行って見ようという意欲をもつことになります。
 意欲をもつためには自分よりまだ上があるという謙虚さが必要で、また上があるというのは、人が完全な生物でない限り常に真実なのです。
 あきらめるのは、欲がないのではなくて、欲をもち過ぎてそれを持ちきれなくなっているからなのです。

 他人の手助けになる事をしてやるのではなく、させて頂く気持ちが大切です。
 他人の喜びが自分の喜び、自分の勉強・修行と心得て奢[おご]り慢[たかぶ]ることなく、その工夫を楽しむ事です。
 自分が一番でもう何も他人に聞くことはない・自分は神ではない面倒だ、と思った が成長の終わりで、心の目を自ら閉ざしているのです。
 自分と神に、もう自分に成長する部分はないのでしょうか?と問うくらいの心持ちが欲しい物です。

憂[うれい]
  近親者や友人の病気災難や将来の心配をしたり、亡くなった時などに悲しんだりするのは、これも神様から与えられた当然の感覚といえます。
 しかし、残された者としていつまでも悲しみにとらわれ続けて、立ち直らないままで過ごすのも罪と言えます。

 なぜ死は汚[けが]れで嫌悪[けんお]すべきものだという考えが出来たのでしょうか。
 古事記の伊邪那岐命[いざなぎのみこと]の黄泉[よみ]の国から帰った時の話(汚い死者の国から帰ったので禊[みそぎ]をしようとする部分)を読んで、死は禊[みそぎ]をしなければいけないくらい汚[きたな]いと早とちりしたものと思えます。
 古事記の”汚[けが]れ“と”汚[きたな]い“を混同してしまったのです。
 御教祖は日本に古くから伝わる、言霊の教えを解釈されて、
「“汚[けが]れ”は、キ(気)・カレ(枯れる)を本言[ほんげん](元の意味)とする。」と教えておられます。
 気は神から戴く生きる力で、これが枯[か]れれば人は生きる意欲や力を失ってしまうのです。
 なぜ枯れるのかと言えば、それは罪[つみ]を犯すことで自分の魂を汚[よご]し曇[くも]らせてしまい、これが神からの気の通り道を閉ざしてしまうからなのです。
 鏡が曇るときれいに映[うつ]らないのと同じです。

 なぜ死と汚[けが]れが関係するのかと言えば、死は“憂[うれ]い悲しみ”という、人の当然の心情ながら“罪”を犯[おか]していることにもなっているからなのです。
 近親者が亡くなった時、憂[うれ]い悲しむ気持ちは当然で当たり前の感情です。
 しかし、いつまでもこうした気持ちから解き放たれないと良くない、と言うのはこうした訳なのです。
 死→悲しみ・憂[うれ]い(御教祖の説く七罪の一つ)→罪となるのです。
 悲しむことは神から戴いた人間の感情として悪とは決め付けられないものの、御教祖は生きる意欲も同時に神から戴いた人間の感情であり、この二つを両立させる為に、悲しみ・憂[うれ]いを罪の一つに入れられたのです。
 悲しみから解放されることを遠慮するようなことはない、これにいつまでもかかずらっていることが返って先祖を心配させる罪になるのだ、教えられているのです。
 死者を安心させる意味でも、悲しみの心を癒[いや]すとともに、生きる意欲を持って自分の幸せを見つけなさい、と促[うなが]しているのです。

 死を汚[けが]れとするのは、決して死を汚[きたな]いものとしているのではありません。
 こうしたどうしようもない罪を祓う力を“塩”に託[たく]すというのが、日本人の古くからの習慣であり、生活の知恵とも言うものなのです。
 人が常に罪を祓わねばならないのは、こうした自分の力や感情では及ばない諸々の罪をかぶり続けているからなのです。
 罪を祓い御神徳を受けられるように生きるのが、人の道です。
 塩という貴重で大切なものを撒く決意で罪を祓う、という意味もあるようです。
 葬儀から帰って塩を足元に撒[ま]き、手を合わせてから家に入るというのは、決して差別などではありません。

 亡くなった祖先は、最初は自分の死への自覚が薄い人も段々と日が経つにつれ、自分の子孫を見守るという役割を知るようになります。
 その時、自分の子孫を見ていまだに悲しむばかりで仕事にも手がつかずに支障をきたしているのを見てどう思うでしょうか?
 多分、不安に思われることとなり、そうなると祖先の心(霊魂・四魂)は乱れ、子孫を見守る力も薄らぐのです。
 祖先の安心は、実は私たちの安心にあるのです。
 祖先の安心の為には、自分達が充実した幸せな人生を歩んでいることを見て頂くべきと言えます。
 悲しみは当然の心でありながら、日が経つごとにその悲しさを取り去り、祖先の為にも自分達が生きてゆこうという意欲を奮い起こすことが大切で、これまた当然の心の持って行き様なのです。
 生きる力を奮い起こす為には、同時に神と先祖の力をお借り出来る様に、信仰を持って祈ることが大切なのです。
 神へ願い事をするには、祭りが一番の神への近道とご教祖は教えておられます。
 荒魂の活性を請い、祖先を通して神からの勇気・意欲を与えて頂き、憂いを取り除きたいものです。

怨[うらみ]
 『天に向けて唾[つば]を吐く。』という言葉がありますが、人を恨むということはまさに上を向いて唾を吐く様なものです。
 物理の法則どおり、自分の吐いた唾は自分の顔に返ってきてかかり、一番気持ちの悪い思いをするのは自分ということになるのです。
 物理の法則だけではなく、天や自分の祖先からも、障[さわ]り(その罪を教えようと病気・災難)を受けることとなるのです。
 天も人も恨みは同じことで、どんな目に合わされようと『怨[うらみ]』の心に取り付かれて離れられないならば、自分の心の目を曇らせることとなります。
 世間や人を恨みそれが人を苦しめれば、またその人の祖先の恨みを受ける事にもなります。

『罪を憎んで人を憎まず。』という言葉があり、ご教祖もそうしたお心持ちであられた様ですが、社会や人を恨むことは自分の罪となって返ってくるのです。
 世間や人を恨み、人のせいにすることは、気持ちが重くなるに従って神の国にである日の若宮から離れ、黄泉[よみ]の国に近付くこととなります。
 人のせいにするのではなく、今の自分の悪いところは自分のせいで、良いところは神と先祖の守りのお陰とありがたく受け取れば間違いはなく、必ずそこから上昇してゆくのです。
 人助けを気軽な習慣とし、その人の祖先から感謝されること(=陰徳を積む)を目指したいものです。
『我が心清々しい』をいつも唱え、怨[うらみ]の心を雨散霧消させ、大海のような少々の汚れも浄化する様な心持ちでいたいものです。

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